一般道各駅停車の旅

1999年に開設したキャンピングカーの旅のHP「一般道各駅停車の旅」。その作者のブログです。キャンピングカー、旅の情報を中心に、不良サラリーマンの日常を面白おかしくお伝え出来たら幸いです。

50代半ばのエレキギター その1

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お盆休み、今日も雨・・・。

巷はコロナの感染爆発・・・。

おかげ様でブログ記事が進みます!?笑

 

さて、相変わらず低迷しつづける私の物欲ですが、

最近は少しだけエレキギターが気になっています。

ロクに弾けもしないくせに

杢がハッキリとした本家ギブソンレスポールなんぞをネットで漁っています・・・。

 

あと2週間で55歳。

そんな歳の男のエレキギター観などを綴っておきましょう。

まずは私のギター遍歴なんぞを・・・。

 

🎸あたくしTakumaのギター遍歴🎸

 

 ギターとの出会い 

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小学校1年からクラッシックピアノを習っていたので

音楽には親しみがありました。

そんなこともあり、中学では部活でギター部を選びました。

世良公則&ツイストのギターに憧れて入部したのに、

その部はクラッシックギターアンサンブルでした・・・。

つまり間違えちゃったんですね・・・。笑

しかも、そのギター部は全国大会で優勝するような常勝軍団。

すごくないですか?だって日本一ですよ!

間違えちゃったんですが、せっかくなのでここで郷に従い

プロの先生についてギターアンサンブルを学びました。

 

バロック音楽への傾倒

ギター部ではバロックに魅せられました。

厳かな旋律の中に静かに燃える情念。

バロック音楽のそんなところに魅せられてギターを練習してました。

また、独奏では先輩が弾いたアルハンブラの想い出」に魅せられ

いつかあんな風にこの曲を弾きたいという目標が芽生えました。

 

ギター部との別れ

バロックに魅せられる一方で

「お手て繋いで」的なポップスや祭音楽を演奏するのは苦痛でした。

一番多感な反抗期に「お手て繋いで」は耐えられなかったのでしょう。

やがて日本一の常勝軍団は文化放送の協力を得て自主レコードの製作に至ります。

そして、私はこのレコーディングを最後に部活を辞める決意をします。

中高一貫教育の4年生、つまり高校1年の頃の話です。

苦楽と共にした仲間との別れの寂しさと

新しいことを始める高揚感が入り混じっていました。

 

ロックとの出会い

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新しいこととはロック音楽でありエレキギターでした。

中学2年の頃、クラスの友達から教えてもらったレインボー

ボクのロックの入口でした。

反抗期ゆえの社会の矛盾、大人への嫌悪感、自我形成のストレス、

そんなマグマのようなエネルギーをぶつけるには最適な音楽でした。

ロックには日々、深くのめり込んでいきました。

やがて御茶ノ水のクロサワ楽器でTOKAI製の5万円のレスポールを購入します。

15歳の少年にとってはエレキもロックもちょっと背伸びしている世界、

ちょっと不良になってしまうようで期待の中に不安もありました。

そんなこともあって、自分の主張をすることも出来ずに、

店員さんから勧められるがままのギターを買いました。

 

バンド活動の開始

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エレキを買ったのはいいのですが、買った当初は何をしたらいいのか分からず

ギター部で弾いていた音楽をピックで弾くだけの日々が続きました。

カッコイイから買ったエレキギターですが、

どう使ったらいいのか、良く分かりませんでした。

しかし、きっかけになる出来事がありました。

エレキギターのテクニックがほぼ皆無な私でも簡単に弾ける曲をラジカセで鳴らして

それに合わせて弾いてみたのです。

これが爽快に気持ちが良かったんです。

ホワイトスネイク「Don't Break My Heart Again」という曲です。

エレキは独りで弾いていてもつまらないんだ。

バンドをやりたいな。

やがて、学年で唯一結成されていたバンドに加入させてもらいました。

 

ライブ活動デビュー

バンドを初めてからは、生活がエレキ一色となりました。

やがて音楽仲間との交流は学校の外にも及び、

ついにはそんな仲間たちとライブステージに立つことになりました。

御茶ノ水宮地楽器ジッパルホールでのライブです。

その後、数々のバンドでステージに立ち、曲も書くようになっていきました。

しかし、その頃大学受験の足音が大きくなってきていました。

周りの仲間たちは受験勉強を始め、バンドから去っていきました。

この頃、私は悩みました。

全身全霊を打ち込んで活動していたバンド活動をこのまま人生の目標にするか、

それとも進学する道を選ぶか・・・。

takuma1966.hatenablog.com

 

大学への道

やがて私は、親からの強いススメもあって、

一時ギターを辞めて大学へ行く道を選びます。

この選択肢はその後、10年以上も私を苦しめることになります。

本当に夢を追わなくて良かったのか?

例え失敗しても、逃げないで夢を追うべきではなかったか?

そんな風に・・・。

それでも、今考えるとあまりの勘違いぶりに身の毛もよだつ気分になります。

それだけ、当時の自分の音楽のセンスやテクニックのレベルの低さ、

アーチストという業への適性の無さを感じるからです。

そんなこんなでライブハウス新宿JAMのライブを最後に活動を休止しました。

後から知ったのですが、当時の「新宿JAM」では、

同い年のエレカシ宮本浩次さんが活躍していたそうですね。

これまた同じ年の斉藤和義さんが、まだ栃木でギターを弾いたいた頃です。

 

大学生活

勉強なんて何もしていなかった私が、大学など行ける訳もなく当然浪人しました。

それでも1年間は息を止めたように勉強をして大学には入れました。

その頃、面白いバンドを結成しました。

苦楽を共にした常勝軍団ギター部の旧友たちとフュージョンバンドを結成したのです。

少しカッコつけた言い方をすれば、音を鳴らすだけで分かり合えた旧友たち、

そんな仲間と奏でる音は本当に「息がピッタリ」だったのを覚えています。

ただ弾くだけではなく、その音に彩をつけるレベルの演奏、

そんなバンドを経験出来ました。

また、高校時代のバンド仲間のライブにゲストで呼んでもらって

BOOWYを弾いたりしました。

東京理科大の大学祭のことですが、

これが私の学生時代のライブ活動の最後のステージとなりました。

 

 

社会人時代

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東京理科大のステージを最後に本格的にギターを練習することはありませんでした。

しかし、友人や親族の結婚式の余興で演奏を頼まれることがありましたので

クラッシックギターとアンプ内蔵エレキもどきZO-3を所有していました。

そうそう、6年間の群馬在住時代に、なんとライブを経験しているんですよ。

河合楽器のピアノの先生がママさんをする行きつけピアノバーで、

そのママさんに、とても私の歌唱力を買って頂きまして、

バンドに無理やり加入させられるという・・・。

そのバーで2回程、ライブをしました。

 VO&エレキもどき:私

 ピアノ:ママさん(ピアノの先生)

 エレクトーン:ママさんの職場の仲間のエレクトーンの先生

 ベース:ママさんのライブ仲間の現役のベーシスト

 ドラム:ママさんのライブ仲間の現役のジャズドラマー

なんという、「独り素人」状態、罰ゲーム的なライブなのでしょう。笑

ママさんにはエレキもどき(いわゆるZO-3)じゃなく、

借り物である本物のエレキギターの使用を促され(命令!?)ましたが、

そうするとかえって恥ずかしいので敢えてZO-3で出演しました。

 

現在

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群馬時代に購入したOVATIONのアコギだけはもう20年も所有しています。

ここ20年近くはこの一本だけ・・・、

あ、いや、山梨時代にキャンピングカーに置きっぱなしにする用に

小さなアコギを買ったのでした。

旅先ではこいつが良い仕事をします。

また自宅ではたまに酔っぱらって、OVATIONで懐メロや斉藤和義さんを爪弾きます。

とてもギターをやっていたなんて恥ずかしくて言えないレベルで・・・。

 

 

その2に続く

 

Takuma@一般道各駅停車の旅

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